京の彩り・染と織

幕末・維新期の染織⑥-織物技術の伝習

2017年11月

 京都の染織業の歴史は長く、維新後も重要な産業と位置づけられたため、織物技術の近代化は京都にとって大きな課題でした。そこで、京都府は1872(明治5)年に佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の3人にフランスのリヨンへの留学を命じます。彼らの留学の目的は、近代的な織物技術を学び機械を購入することでした。佐倉と井上は1873年に帰国し、ジャカード機やバッタンなどの織機類を持ち帰りましたが、1874年まで留学していた吉田は帰国を目前に船が伊豆沖で遭難し、日本の地を再び踏むことはありませんでした。ジャカード機は経糸を上げ下げする紋織装置、バッタンは杼(ひ)を飛ばす装置で、これらの機械を用いることで機織の効率が飛躍的に向上します。帰国した佐倉と井上は、1874(明治7)年から最新式の織機を設置した織工場(後の「織殿(おりどの)」:河原町二条下る)で織物技術を教え、翌年には全国から伝習生を集め洋式織機の技術の啓蒙に努めました。

 京都の職工がリヨンに留学していた時期に、岩倉具視を団長とする岩倉使節団が同地を訪れ、職人たちと会いました。岩倉使節団は、リヨンについて「織絹業を盛んに起せしこと、当地繁昌の根源とはなりぬ」、「里昂(リヨン)の紡績家は、繊細の糸を紡し、靡薄なる帛を織ることを務め、絹帛の価は、大に沸騰して」(『特命全権大使米欧回覧実記』)と記しています。リヨンはフランスのなかでも絹織物業が盛んな都市で、高級絹織物を製造していました。岩倉使節団の随行員であり、『特命全権大使米欧回覧実記』を編修した久米邦武によると、リヨンで「同地の絹織物の事に就き、通弁を以て色々と問答しても、少しも要領を得ぬのに、京都の機業家某は少しも仏語を解せず、手様目様」(『久米博士九十年回顧録』)で意志疎通していたようです。

 1872年という早い時期に職工が海外に留学し、言葉も通じない状況で幾多の苦難を乗り越えて技術を学び、その技術が長い時間をかけて京都の織物業の近代化に貢献しました。京都の染織業が、長い歴史のなかで多くの人々の努力によって発展してきたことに改めに思いが至ります。

京都華頂大学教授 馬場まみ

一覧へ戻る