京の彩り・染と織

室町から桃山時代の染織⑥-金襴

2017年01月

金襴は中国から伝来した織物で、金糸のみを用いて文様を表わします。金糸を織り込むという豪華さから、法衣や芸能の装束、名物裂にと様々な場面で用いられてきました。高野山天野社に伝来する舞楽装束には、紺色の繻子地に金糸で牡丹唐草文を織り出した金襴が用いられています。この装束は1378(永和4)年に奉納されたことがわかっていますので、中国の元末から明初に製作され日本にもたらされた金襴と考えられていてます。

日本で金襴がいつから織り出されたのか詳細は明らかではありませんが、1878(明治11)年に著された『工芸志料』には、「天正年間支那の職工、和泉の堺に来り、金襴を織り、且つ巧を所在の工人に伝う。本邦に於いて金襴を製すること、此に始まる。…本邦に於いて金襴を製するは、独り京師のみ、今に至りて仍お然り」と書かれています。金襴の技法は天正年間(1573-1592年)に中国から堺に、さらに京都に伝わり、江戸時代以降は京都のみで織られていたようです。

桃山時代には、茶会の席で多くの金襴が用いられていました。博多の豪商神谷宗湛(1553-1635)が著した『宗湛日記』には、1587(天正15)年の今井宗久の茶会での表装裂が「上下白地金襴小紋也、中もへき金襴牡丹から草大紋なり、一文字風躰紅金襴 紋ハ雲形のひしの内ニ鳥有くしやくか」であったと記されています。掛軸の天地(上下)に白地の金襴、中廻しに萌黄地に牡丹唐草の金襴、一文字と風帯に雲形の菱に孔雀のような鳥文様を表した紅地金襴を用いていました。また千利休の茶会で、「御茶入備前肩衝」の袋が「白地の金襴」であったとも記されています。茶会の席で、白・萌黄・紅地の華やかな金襴が用いられていたのです。

室町から桃山時代には、中国に加えてヨーロッパとの交易も行われるようになり、数多くの染織品がもたらされました。国内では、四季折々の植物を文様化した繍箔や辻が花染が作られました。この時期の染織文化の魅力は、異国からの新奇な染織品と日本人の美意識を表わした染織品が混在し、豊かに彩られているところにあるといえるでしょう。

 

京都華頂大学教授 馬場まみ

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