京の彩り・染と織

琳派②-光琳と小袖文様

2015年09月

呉服商雁金屋に生まれ育った尾形光琳は、衣装演出の感覚も優れていたようです。江戸時代後期の随筆『翁草』に、元禄期の衣装比べの様子が記録されています。ある日京都東山に女性たちが参会することになり、その場に出席する中村内蔵助(京都の銀座方役人)の妻室の衣装を光琳が担当することになりました。参集した多くの女性たちは、多数の侍女に取り巻かれ「唐のやまとの美を尽し、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の目もあやなる」装いでした。そして何度も「前に増れる結構成る」衣装に着替えました。では、光琳は内蔵助の妻室にどのような衣装を着るように指示したのでしょう。

内蔵助の妻室は、「黒羽二重の両面に、下には雪の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し」、何度も着替えたのですが、その度に「同じ様なる黒羽二重白無垢」を着装しました。元来羽二重とは、貴人が着る「和国の絹の最上」の織物でした。さらに、侍女は「外の妻室の出立に倍して、結構」な装いでした。つまり、妻室は何度着替えても最上の黒羽二重白無垢を着て、そのかわりに侍女には他の妻室より結構な衣装を着せる、というのが光琳の指図だったのです。この演出により、「中村の出立抜群にて、一座蹴押され」たといいます。

衣装の演出のみならず、光琳の描く文様も女性たちにもてはやされました。光琳が実際に絵筆をとって小袖に文様を描くこともありましたが、このような小袖は特別なものでした。光琳の晩年から没(1716年)後には光琳風のデザインが流行し、光琳文様を取り入れた雛形本が何冊も出版されました。『光林雛形若みとり』(1727年)には「光りん水」「光りんもみち」「光りん梅」などの語が記されており、光琳の描く水や紅葉、梅などがパターン化されて衣装のデザインに取り入れられていたことがわかります。光琳と染織との関わりは深く、光琳が江戸時代の小袖文様に及ぼした影響も大きかったのです。

京都華頂大学教授 馬場まみ

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