京の彩り・染と織

琳派①-光琳と呉服商雁金屋

2015年07月

京都では、本阿弥光悦が徳川家康から洛北鷹峯の地を拝領して400年を迎えることを記念して、さまざまな行事が開催されています。尾形光琳の生家である尾形家も当時鷹峯に居を構えていました。そして光琳の曽祖父である尾形道柏は光悦の姉を妻にしており、尾形家と本阿弥家は縁戚関係でもありました。

さて、呉服商であった尾形家はもと浅井家の家来筋といわれており、その関係から浅井長政の三人の娘、豊臣秀吉の側室淀殿、京極高次夫人の常高院、徳川秀忠夫人の崇源院の呉服を扱っていました。さらに、崇源院の娘である東福門院の呉服御用もつとめ、家業は大変繁盛していました。東福門院は、後水尾天皇に入内し中宮になった女性です。東福門院は膨大な数の小袖類を雁金屋に注文していて、亡くなる年の約半年間に注文した200点近くの小袖類を含め、800点以上の注文記録が残されています。これらの記録をみると、小袖でも帷子でも最も多く文様化されたのは菊でした。雁金屋に残された注文帳では、「御地りんす御地白、きくあかへにかのことあさきかのこゆひわけ・・・、金糸の御ぬい」というように、多くの衣装について生地や色、技法の説明が記されています。この小袖は、白の綸子地に赤紅と浅葱色の鹿の子で菊を表わし、金糸の刺繍も加えた贅沢なものです。17世紀半ばには、多彩な鹿の子を施し金糸や色糸の刺繍で装飾した華やかな小袖が制作されていました。

雁金屋は、東福門院没(1678年)後に衰退し廃業しました。光琳は1658年生まれですから、20歳頃まで生家の家業は繁盛していたことになります。雁金屋が職人たちに作らせていた斬新なデザインの小袖、精巧な染織技術に接していた状況を考えると、光琳芸術に与えた染織文化の影響ははかり知れないほど大きかったと思われます。

*塚本瑞代『雁金屋御画帳の研究』中央公論美術出版、2011年

京都華頂大学教授 馬場まみ

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